朝7:30に目覚め、晴れた土曜日の街を歩きヨガのレッスンへ。
自分だけの時間をもつことってなんて贅沢なんだろう。毎度新鮮なこの気持ちが浮かび上がってくる。
細部まで隈なく意識を巡らせ
感覚を自由に泳がせるとき。
皮膚にあたる風 首筋に触れる髪
呼吸のなみ 体液のながれ…
身体と私はひと繋がりになり
身体からの本当の望みを聴ける瞬間。
このまばたきのような一瞬を丁寧にすくい上げ、
大切に受け取ってあげよう。
そのアイデアや直感、スッとしたり
モヤッとしたりの身体感覚は
自分の頭でこねくり回しては出てこない、
一番素直な「わたし」の声である。
なーんてね。
今日もよき1日をね!
整体を受けて自覚したんですが、私、発散がニガテになっていたみたい。
ここ数年、発散することに制限を感じているひとも多いかとおもいます。今これを読んでいて一緒にうなずいてくださる方もいるかもしれないですね。
この間、ひっさびさに友人と会って美味しいごはん食べながらおしゃべりしたら、凄く幸せな気持ちになりました。そう言えば、少し前まで普通だったことが今は普通でなくなっていました。
環境が変わって快適になった部分も結構たくさんあるんだけど、知らぬ間に発散しづらい生活になっていたみたい。
昨日も言ったように、変化は知らぬ間に進んでいるもんなんですね。
お笑いみたり、登山したり、歌ったり踊ったり、ヨガしたり、、皆さんの好きな発散方法があったらぜひ教えていただきたいなあ。
先日ひとつの仕事を終え、次のステージへ旅立つひとがいた。
いつも想うのは、「去り方にその人が現れる」ということ。くわしくは
「その人の状態」が現れるとおもう。何だかイザコザがあって喧嘩別れのようなカタチで去っていくひと。
みんなから笑顔で送り出されるように去っていくひと。
そして、去っていく本人も、去る時になってやっと自分がどれだけ成長してきたのか、どこまで歩いてきたのかが何となくわかるのかもしれない。日々つみ重ねている渦中はなかなか自分の成長に気づけないし、むしろ長く続けるほどに停滞感を感じたりする。
よくみる「成長曲線」というものがある。
なにかをはじめた時、多くのひとはそれに費やす時間と成果が比例すると考えるが、大抵の場合は時間をかけても始めのうちは成果が出ず、ある時ポンっ!っと突き抜けて成長するというものだ。
だから、「英語を勉強しよう!」とか何かを学ぼうとしても始めの1ヶ月も持たずに多くの人はやめてしまうらしい。
ただ、今ならわかる。それは努力が足りないとか根性なしなんかじゃないってこと。
体や感情は、いつも大切なことを自分に気づいて欲しくてサインを送る。
だから、絶対に自分を責めないでほしい。いつでも大切に、自分の小さな声に耳をすませてほしい。
(自分にも言い聞かせながらこれ書いてるけど、だいぶ出来るようになってきたかなあ)
それは、
真面目に頑張りすぎて疲れている、休みたいよのサインだったり
人の目を気にしすぎて自分が心から望んだものではないってサインかもしれない。
だからこそ、自分が好きなことはいつまでも捨てずにいたいとおもう。
いま続かないのは、疲れているだけかもしれないから。
家でもお店でも珈琲を淹れることは、私の続いていることのひとつ。
飲む器で味わいってずいぶんと変わるよねえ。