先日はバンドメンバーの結婚式でした。
みんなが2人の嬉し恥ずかしい緊張で少しだけこわばった表情に向かって祝福したり、これまで歩んできた道を振り返って笑いあったりする時間。
結婚式って2人の結婚を祝う場だけど、それだけじゃなくこれまでにあった苦い経験も甘い想いも、その人が経験してきた全てをまるっと含んだ ”それ” を祝福する感じがする。そんな言葉にするのが難しい “かけがえのないなにか” に満ち満ちた時間を過ごすと 「このいのち、このじかん、無駄にするんじゃあないよ」 とどこからともなく聞こえてくる気がした。
この心をもっともっと感動に触れさせたい
この目をもっともっと美しいものに使いたい
今あるこの限りある身体を喜びで満たしてみたり
優しさに浸してみたりしたい
そういったことにめいいっぱい使い切りたい。そんな感覚をこの身体に残してくれるのが、私にとっての結婚式。
ひさしぶりにゆっくりと座って瞑想をする。
といっても15分くらい。
スマホはへーきで15分とかみてるのにね、15分目を閉じて座るのはとても特別に感じるね、うへへ。
胸につかえていたものが何なのかわからず、ひとまず瞑想をはじめてみると、カラダさんから
「ぼくのこと忘れないでね」←なぜかボク笑
って言われた。そして、最近ずっと意識が外に外に向いていたことに気づいた。何かをずっと外に向かって探していた。胸をギュッと締めつける何かを取り除くために。
ある時は、本の中を探し、ある時は思考の中を探した。
でも、正解は外側には何もなくて、私の内側からきこえてきた。それは正解でも不正解でもなく、ただの声だった。
やっぱり、自分のカラダとつながっていることは、なにかとても大切なことなのかもしれない。
そんなの当たり前じゃないか、とアタマでは言いたくなるけど、カラダでわかっている事に意味があるんだ。
ここ数日の私のように、カラダとつながることを何日か、もしかしたら何年か忘れてしまっている人がこの世界にはあふれているかもしれない。外側の世界はいつも魅力的で、沢山の情報で賑やかだからね、ついつい誘われるように、外の世界にばかり居てしまうんだ。
樹と樹の根のように、外と内が同じだけ自分のなかにあるのが丁度いいのかな、なんておもったそんな日。
先日ひとつの仕事を終え、次のステージへ旅立つひとがいた。
いつも想うのは、「去り方にその人が現れる」ということ。くわしくは
「その人の状態」が現れるとおもう。何だかイザコザがあって喧嘩別れのようなカタチで去っていくひと。
みんなから笑顔で送り出されるように去っていくひと。
そして、去っていく本人も、去る時になってやっと自分がどれだけ成長してきたのか、どこまで歩いてきたのかが何となくわかるのかもしれない。日々つみ重ねている渦中はなかなか自分の成長に気づけないし、むしろ長く続けるほどに停滞感を感じたりする。
よくみる「成長曲線」というものがある。
なにかをはじめた時、多くのひとはそれに費やす時間と成果が比例すると考えるが、大抵の場合は時間をかけても始めのうちは成果が出ず、ある時ポンっ!っと突き抜けて成長するというものだ。
だから、「英語を勉強しよう!」とか何かを学ぼうとしても始めの1ヶ月も持たずに多くの人はやめてしまうらしい。
ただ、今ならわかる。それは努力が足りないとか根性なしなんかじゃないってこと。
体や感情は、いつも大切なことを自分に気づいて欲しくてサインを送る。
だから、絶対に自分を責めないでほしい。いつでも大切に、自分の小さな声に耳をすませてほしい。
(自分にも言い聞かせながらこれ書いてるけど、だいぶ出来るようになってきたかなあ)
それは、
真面目に頑張りすぎて疲れている、休みたいよのサインだったり
人の目を気にしすぎて自分が心から望んだものではないってサインかもしれない。
だからこそ、自分が好きなことはいつまでも捨てずにいたいとおもう。
いま続かないのは、疲れているだけかもしれないから。
家でもお店でも珈琲を淹れることは、私の続いていることのひとつ。
飲む器で味わいってずいぶんと変わるよねえ。
若干熟れて安くなっていたゴーヤを八百屋さんから連れてかえる。お浸しにしたら、苦味がやわらかくなっていてとってもおいしい大成功!
そういえば、はじめて熟れたゴーヤを半割りにした時の衝撃ったらない。
中のタネが朱色のような真っ赤っかで種の表面は若干ぬるっとしている。ワタにもその朱色が移ってすこしオレンジ色。ゴーヤは緑で中は白、とばかりおもって割ってみれば、過激な朱色って…!
植物って時々ギョッとする姿をみせる。
百合の花の花粉のオレンジも、チューリップのそれもギョッとする。
牡丹の花が雨に濡れてボトっと土に落ちて、茶色くなっていくのも。
サボテンが急にド派手な色の花を咲かせるのも、パンジーの模様も小さなころはこわかった。
…いや、今もちょっとこわい。
友人がSNSで美しい海と空の写真をあげていて、その美しさに心が素直に震えた。美味しいとか、綺麗とか、いい音楽、、世界の嬉しい楽しいことを、本来は素直に喜べるんだった。って昨日の施術で思い出させてくれたようです。
こう書くと、大丈夫?病んでたの??と思われるかもしれないが、全くそんな事はなくて、毎日よく寝てよく食べて特に不調の意識はまったくありません。もしかすると多くの人がスルーする程度のものかも。
いま、思い返してみたら、ここ数週間、YouTubeをよく見ていたかな?とか、自分の体に流れる目に見えないうごきや波みたいなものを感じれてなかったかな…?みたいなところは思い当たる。ちょっと表層的な部分で生きていたようなかんじ。
私たちは毎日こうした喜怒哀楽や感情の揺れのなかで生きているのが「普通」なんですって。私に東洋医学を教えてくれた安部先生が言っておりました。
私のようなマジメさんは、揺れちゃダメ!安定最高!みたいなところがあるから、(それって安定という名の固定なんだけど…)気持ちよく揺れるのが安定なんだよお、って同じマジメさんたちにはお伝えしたいです。
今日も気持ちよく揺れてこー!